飯沼小学校 地区自慢
飯沼小学校 地区自慢
●左平太新田
飯沼小学校の学区には社会科にて第4学年で学習する「飯沼干拓」にゆかりのある 秋葉 左平太 にちなんだ地区(左平太新田)の名前が残っています。
秋葉 左平太とは・・・ |
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飯沼干拓(新田開発)の中心となった人です。 | |||
<飯沼干拓の歴史> |
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もともとこの地方は水田地が少なく,飯沼の開発は早くから考えられていましたが実現していませんでした。 そこで秋葉左平太は「享保の改革」の一環である『新田開発奨励政策』を飯沼干拓の許可願い出の好機と捉えました。 幕府に願書を提出し,開発の方法・過程においても粘り強く交渉しました。 その後工事着手の許可が下りた後も,干拓工事の指導的役割を担い,困難を極めたこの一連の事業に身を投じて尽力しました。 |
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【 出典 】 |
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「輝く茨城の先人たち」 茨城県生活環境部生活文化課WEBページより抜粋・改稿 |
<現在の飯沼> |
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今日では飯沼小学校の学区には多くの水田が広がっています。 飯沼干拓で作られた吉田用水(東西仁蓮川)が流れており,多くの水田が豊富な水を蓄え,豊かに稲穂を実らせています。 |
●長塚 節
飯沼小学校の近隣には茨城県が生んだ歌人 長塚 節 の生家があります。
長塚 節とは・・・・ | ||||
明治12年4月3日 茨城県結城郡国生村=現在の常総市生まれ 歌人,小説家 (結核のため37歳で死去)
◆代表的な作品◆
白埴(しらはに)の 瓶(かめ)こそよけれ 霧ながら 朝はつめたき 水くみにけり |
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<長塚 節の略歴> |
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3歳のときにはすでに百人一首を暗誦できたとの言い伝えが残る長塚 節は,茨城県尋常中学校(現:水戸第一高等学校)に入学しましたが,4年進級後に脳神経衰弱のために退学します。療養に過ごした郷里の自然に親しみつつ、文学への関心を高めていきました。
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19歳の時に正岡子規の写生説に共感し,21歳で子規を直接訪ねて入門します。そこで『アララギ』の創刊に携わり,もっぱら万葉の短歌の研究と作歌に励みました。『馬酔木』『アララギ』に多数の短歌を発表し,子規の没後もその写生主義を継承した作風を発展させ,また散文の製作も手がけました。このことから正岡子規の正当な後継者であると言われています。 写生文を筆頭に数々の小説を『ホトトギス』に掲載します。30代前半には,日本の農民文学を確立した作品として知られる 長編「土」 を『東京朝日新聞』に連載しました。当時の農村を写実的に描写しており,農民小説のさきがけの一人として名を残しました。
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1912年(明治45年・大正元年)は喉頭結核を発病、病に苦しみ九州帝国大学医学部の久保猪之吉博士を頼って同病院に入院して治療に臨みましたが1915年(大正4年)に九州帝大にて没しました。 |
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長塚節の生家の庭 |
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【 出典 】 |
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ウィキペディアフリー百科事典より抜粋・改稿 |
現在常総市では 長塚 節 の功績を讃えるとともに,文学の祖を築いた彼に続く新人の輩出を推進すべく,短編小説・短歌・俳句の三部門について長塚節文学賞が毎年実施されています。
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